和田 聰宏さん
10代の頃、あんなに出たかった場所なのに
今は天栄村に帰るたびに「いいところだな」と思う。
「地元の皆さんが懸命に村を盛り上げようとしていることが本当に良く分かります。〝移住する人がもっと増えてくれればいいのに〟って、村を出た僕が言っちゃダメかな(笑)」と、今だから思う故郷を愛する喜びを話していただきました。
── 天栄村にはいくつまで?
18歳です。高校を卒業してすぐ、美容師になるために上京しました。今でこそ「故郷です」と堂々としていますが、あの頃は周りに〝天栄村の出身だ〟と言うことがやけに恥ずかしく、はやく村を出たくて仕方ありませんでした。役者になったのは、美容師時代に塚本晋也監督の『バレット・バレエ』という作品にエキストラ出演したことがきっかけです。現場の塚本さんは監督とカメラマン、俳優をこなしていました。役割ごとに表情を変えて取り組む様子に、「こんなすごい人がいる世界なのか!」と惹きこまれてしまい、半年後には美容師をやめました。
── 俳優に転身後の道のりは?
複数の事務所をまわり、オーディションも受けましたが、もちろんそう簡単なことじゃなく。やはり、演技をきちんと勉強しなければと、小さな劇団で3年ほど過ごしました。転機は、劇団を出た後に出演したアイフルのCMでした。当時露出が多く、道を歩くと「アイフルの人?」と声を掛けられるほどでした。このCMを観たプロデューサーが中江裕司監督の『ホテル・ハイビスカス』のオーディションに呼んでくれて、この映画を観た人がまた声を掛けてくれて…と仕事がつながっていきました。なかでも、27歳の時に初出演したフジテレビの連続ドラマ、『東京湾景』は思い出深い作品の一つです。
── 現在は故郷をどう感じている?
僕だけじゃないと思いますが、離れて気づいたことは多いです。殺風景だと思っていた大自然、新鮮な野菜の美味しさとか。何より天栄といえばお米ですよね。実家も米農家だというのに、僕は長い間他のお米との違いも、美味いのかどうかも分かりませんでした。だって東京に出てからも送ってもらっていたので、天栄米しか食べたことがないんですよ。だから比べようがない。仕事が広がって、外食が増えてからレストランの白米を食べて、「あれ?」と感じるように…。
── 子どもの頃の忘れられない記憶は?
子どもの時は出前が楽しみだったな。うちはいつもえびす食堂の味噌ラーメンでした。あとは福島を出る日に母親が作ってくれた肉じゃがの味です。僕、料理が趣味なんです。長いロケの後に家で料理すると落ち着くんですよね。そんな時にふと母親の味に近づけようとしていることに気づいたりして。不思議ですね、あの頃の味がずっと記憶に残っているんでしょうね。
── 母校での初ワークショップの感想は?
毎年一度は帰省してきましたが、特に東日本大震災後は、「自分ができることで、天栄に恩返ししたい」とずっと考えてきました。この想いを村や学校が快く受け入れてくれたことに感謝しています。子どもたちは思い思いに〝自由に表現すること〟を楽しんでくれたようで、僕自身もすごく楽しかった!この経験がしっかりと心に残り、生きていく上で自分の考えや感情をきちんと伝えるための武器になってくれたらと思います。今後も自分の仕事を通してできる限り村に関わっていきたいですし、「少しは親孝行になるかも?」と密かに思っているんですよ。両親には面と向かっては言えないですけど(笑)
◆[プロフィール]◆
俳優
1977年3月25日生 O型
特技/ヘアカット・空手・
バスケットボール・自動二輪(中型)
趣味/料理・ランニング
出身/福島県(天栄中学校・清陵情報高等学校卒)
2000年に俳優デビュー、ノックス所属
近年の出演作/『シン・ウルトラマン』『明日の食卓』
『るろうに剣心最終章 The Beginning』『空白』
『あなたの番です 劇場版』
『劇場版美しい彼〜eternal〜』
『朽ちないサクラ』『かくしごと』
『鬼平犯科帳/でくの十蔵・血頭の丹兵衛』
『SOUND of LOVE』『美晴に傘を』