星田 弘祐さん

震災で出逢ったスノーボードで
福島・東北にもっと夢と愛と勇気と輝きを!

 須賀川市小塩江のスポーツ一家に育ち、その高い身体能力でさまざまなスポーツをこなしてきた星田さんが、スノーボードと出逢ったのは9年前。東日本大震災によって「人生観が一変した」という星田さんに、故郷への想いや今後の活動についてインタビュー!
 

── 子どもの頃の夢は?

 中学の頃、スキーでオリンピックに出てプロになるという夢がありました。高校は県外の強豪校に進みたかったんですが、両親と話し合いの結果高校でのスキーは断念。高校では「スキーができないなら日本一の身体能力をつけ、大学でブランクを取り戻せばいい」とトレーニングに没頭しました。
 ただ、大学進学前に父親から「そろそろ現実を見ろ」と諭され、スキーは諦めました。いま思えば、諦めた時点で僕の覚悟がたりなかったんだと思います。

── スノーボードと出逢ったときのことを教えて!

 大学1年の3月におきた東日本大震災かきっかけです。震災後は募金活動をしたり、大学の復興支援プロジェクトに参加し、宮城県や岩手県でがれき撤去などボランティアを続けました。現場での僕は、「自分ができることをしなきゃ」という想いが強かった。ただ、余裕もなく頑張るうちに体や頭が想いについていけなくなってしまいました。
 そんなとき、友達がスノーボードに連れて行ってくれたんです。久しぶりの雪山に、一瞬で「うわっ!」と胸が高鳴って、一回ではまってしまった。うちには「オレ(父)よりスキーが上手くなるまでスノーボードはダメ」というルールがあったから、このときが初体験でした。

── スノーボードのどんなところに惹かれた?

 すぐに「上手くなりたい」と参加したイベントで、たくさんのプロボーダーと出逢いました。それまでの僕は、勝利至上主義で、人を蹴散らしてでも勝つことしか考えていなかったから、同世代の彼らが情熱をパフォーマンスで表現するカッコよさに心を打たれちゃった。スキーを諦めた心残りもあったし、21歳でゼロから挑戦する僕の姿を通して、復興しようと頑張る福島・東北の人たちの力になリたいという気持ちもありました。

── プロになるまでの道のりは?

 スポンサーがついたのは3年前です。講演会でよく話をするんですが、それまでの下積み時代はめちゃくちゃ貧乏で、夏に稼いだお金をスノーボードに使う生活をしていました。
 関東の施設で練習しながら、浅草で人力車をひっぱってたんですよ。楽しい仕事でした。お客様と話すことで会話のスキルも上がったし、スノーボードのファンになってくれる人も増えました。

── シーズンオフの過ごし方は?

 チャンネルスクエアで、ボルダリングやスラッグライン、スケートボードのインストラクターをしています。他にも、小学校の体育専門アドバイザーや、子どもたちに夢をかなえる楽しさを伝えたくて講演会も行ってきました。
 子どもの肥満や身体能力の低下は深刻ですが、体育専門の先生がなかなかいないので、いまは先生や保護者向けの指導動画も作ってみたいと考えています。

── これからの日標は?

 コロナ禍で、この2年間はグズグズしていましたが、今シーズンは、フリースタイル以外の大会に挑戦してみるつもりです。でもコンテストは今年で最後。これからは、本来のスノーボードの姿を伝える活動にシフトしていくつもりです。
 プレーヤーとして山を滑ったり、岩を飛んだりする姿を発信して、スノーボードの面白さ、自然の過酷さ、楽しさや力強さを皆さんに届けながら、福島や東北を盛リ上げていきます!
 

  • ※ チャンネルスクエア
    • 震災を機に福島の子ども達のために設立されたインドアパーク室内遊び場。
      現在は、二本松市スカイピアあだたらアクティブパークを拠点に活動

 
 

◆[プロフィール]◆
星田 弘祐(ほしだこうすけ)さん
プロボーダー

1991年10月7日生まれ(30歳)
須賀川市小塩江出身
郡山高校、日本体育大学卒
幼い頃から水泳陸上、サッカー、野球などさまざまなスポーツを経験。
中2でISIA国際スキー技術検定で当時の最上位ゴールドを取得。
高2で体力測定テストで日本記録更新、
大学時代は日体大の集団行動演技指揮者、
ライフセービング部の各種大会出場など、実績多数。
2019年スポーツブランド「O’NEILL」とスポンサー契約しプロデビュー
 
 

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